
最近、ある映画に出会いました。
『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』という映画です。
──正直、まったく知りませんでした。
日本では話題になった記憶もなく、タイトルも見た覚えがなかった。
でも、あるきっかけで観ることになったんです。
Second Lifeで「奴隷契約書」について調べていたとき、その関連で「こんな映画があるらしい」と聞いて、興味本位で再生したのが始まりでした。
……気づけば、私はその世界に引き込まれていました。
BDSMを描いた映画としての誠実さ
この映画は、BDSMを知っている人にとっては、とても“誠実に描かれている”と感じられる作品だと思います。
少なくとも私はそう感じました。
支配する側の男性、グレイ。
彼は完璧主義で潔癖症、社会的にも成功していて、強くて美しくて魅力的。
でも、ものすごく不器用で、愛し方を知らない。
彼にとっての愛情表現が「支配すること」で、それ以外の表現方法を知らなかった。
そして、彼の過去に何があったのか、なぜそうなったのか。
作中ではあまり多くを語られませんが、彼の中に「恐怖」があることが示唆されます。
愛された経験がない人間が、どうやって誰かを愛すればいいのか。
それを手探りで模索している姿が、この映画の核心にあるように思えました。
不器用な支配者
この作品の魅力は、そうした“不器用な支配者”の姿にあると思います。
ただ一方で、BDSMを知らない人がこの映画を見ると、「なんでこんな冷たい男がモテるの?」「ただのモラハラ男じゃないの?」といった印象を受けるかもしれません。
実際、アメリカでもかなり賛否両論が分かれたようです。
でも私は、彼の不器用さに、そして彼女がその心をどうやって開いていくのかという関係性に、すごく惹かれました。
暴力とBDSMはちがう
この映画を観たあと、ネット上でいくつかのレビューを見ました。
「これはただのDVでは?」「女性を支配する願望を正当化してるだけ」
そんな意見も多くて、少し悲しくなりました。
たしかに、BDSMのことを知らずにこの作品を観れば、そう思ってしまうのも無理はないのかもしれません。
でも私は、この映画が描いていたのは「暴力」ではなく、「関係性」だったと思っています。
BDSMは、相手を傷つけるための行為ではありません。
相手との信頼の上で、「支配したい」「服従したい」という欲望を安全に表現するための手段です。
そこには、合意と尊重とルールがあります。
グレイは、そのルールに沿って愛情を表現しようとしていた。
彼にとっては、それが唯一知っている「愛し方」だったのかもしれません。
けれど、彼はその違いをうまく彼女に説明できなかった。
暴力とはちがう。むしろ彼は、暴力を避けるためにBDSMという枠組みを使っていたのだと私は感じました。
ただし、彼女にとってそれは十分に安全な関係には見えなかった。
だからこそ、ふたりの心の距離がすれ違い、痛みを残したまま終わっていくのです。
私たちは「暴力性」とどう向き合えばいいのか
この作品を観ていて、私はひとつの問いにたどり着きました。
──私たちは、内にある「暴力性」とどう向き合えばいいのか。
人間もまた動物です。
怒りや支配欲、破壊衝動といった感情は、誰の中にも少なからず存在しています。
それを「なかったこと」にして社会の中で生きていく。
でも、それは本当に健康的なやり方でしょうか?
『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』に描かれていたBDSMという文化は、そうした“人間の本能的な部分”と、どう向き合うかという知恵のひとつなのかもしれません。
それをただタブー視し、排除するのではなく、「安全で合意のある形」で扱おうとする姿勢。
グレイもまた、自分の中の衝動に向き合いながら、それを抑えるためにBDSMを選んだように見えました。
そして、それが「暴力ではない」という違いを、なんとか彼女に伝えようとしていたのかもしれません。
“支配と愛”の交差点
映画の最後には、彼が“愛”と“支配”を混同してしまう姿が明確に描かれます。
そして、彼女はそこから距離を置こうとする。
その展開には驚きましたが、納得もしました。
実はこの作品、3部作の第1作目です。私はまだ1作目しか観ていませんが、これから続きも観ていくつもりです。
この映画は、BDSMのことを知っている人にこそ観てほしいと思います。
そして、「支配と愛」の境界線について、一緒に考えてみてほしいと思っています。
BDSMに興味がある方には、ぜひ観てみてほしいです。
それに、津田健次郎さんの吹き替えも本当に素晴らしくて、グレイというキャラクターの魅力をさらに引き立てていました。